北但馬のモノつくり

【豊岡杞柳細工】

■柳行李から鞄へ

神話の時代、新羅王子とされる天日槍命(アメノヒボコ)によって、柳(やなぎ)細工の技術が伝えられたとの伝承が、712年の「古事記」にあります。豊岡鞄のルーツは、その柳細工で作られたカゴだと言われています。

奈良時代に豊岡でつくられた「柳筥(やなぎかご)」は正倉院に上納されています。1473年の、「応仁記」には、豊岡市の九日市(ココノカイチ)に「九日市場」が開かれ、柳こおりが商品として盛んに売買されていた記述があります。おそらくこの時期から、地場産業として家内手工業的な杞柳産業が発展したことが予想されます。

1881年(明治14年)八木長衛門が第2回内国勧業博覧会に2尺3寸(約70cm)入子、3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品したことが始まりと伝えられています。この3本革バンド締めの柳行李は、外観はトランクと同じであったが、トランクと呼ばれずに柳行李と呼ばれていた。このことは、これが従来の杞柳製品の改良品で、柳行李で名高い豊岡で作られたことが、鞄と呼ばれず行李と呼ばれた原因と言われている。

出典/豊岡鞄の歴史と技 http://www.toyooka-kaban.jp/history/

■杞柳と大麻

昭和10年頃 豊岡を中心とした杞柳製の生産は全国第一位であった。原料となる杞柳は円山川両岸の河岸潟地並に氾濫原に産したものを主とし、完全に自給自足を行なっていた。しかし、円山川治水工事が進み原料柳の激減により、内地の各地方から仕入れ、また、安価なものは支那から輸入した。原料が自給出来なくなったにもかかわらず、この工業がさほど衰へたと思へないほど生産されるのは、まず杞柳工業の歴史が古く他で模倣することの出来ない製造上の技術が傳習されているからである。

行李の編絲の原料で有る大麻は、古来但馬の名産の一つであった。今日でも(昭和13年頃)低温高湿の気候をもった美方郡の小代村・照来村、城崎郡の三方村・山椒村などの山地の村々では僅かながら栽培されている。これらを合した但馬産の大麻は年々減少して行く傾向が有る。それでも大麻は兵庫県内では他に見られぬ産物である。行李の生命となるべき麻絲は皆但馬産を用いたものであるが、原料として高価な大麻はしだいに安価な輸入麻の亜麻(大正5年)やラミー(昭和に入って)に厭されてしまった。  但馬読本/135p http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1101585/135

豊岡で作られたと思われる母方の祖父のバスケットと 近隣の村の蔵に保管されていた大麻の繊維

  出典/但馬讀本 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1101585

■杞柳製品から〜 豊岡鞄 http://www.toyooka-kaban.jp/

【但馬の養蚕】

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参考資料/国会図書館デジタル資料 養蚕秘録
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2556952?tocOpened

■但馬の絹 養蚕秘録

生糸は但馬の誇るべき産物であったが、18世紀後半、奥州の養蚕技術が向上したため但馬地方の生糸の評価が下がり下級品とされた。大屋町蔵垣出身の上垣守国は、毎年のように奥州などに蚕種の仕入れに出掛け,自らも蚕種製造を行った。享和2(1802)年に著した『養蚕秘録』は最も代表的な江戸時代の養蚕書である。これは和漢の古典や農書類を引き,また各地の養蚕技術を紹介しつつ,養蚕に関する幅広い知見をはじめてまとめた点に特徴があり,のちの養蚕書に大きな影響を与えた。奥州種の蚕を改良して但馬種をつくりだし、但馬地方に広く伝えられ北近畿一円に広まったとされる。守国は寛政9年(1797)に豊岡の奥佐野で蚕種の販売を始め、「養蚕秘録」(上・中・下巻)を著す。のちに村の庄屋になり,学問の教授や養蚕技術の指導も行い,また蚕種業によって富を成した

こうした熱心な研究と伝習により年々質及び量も向上する。のちに豊岡市但東町に隣接する丹後の峰山から、ちりめんの技術が移入され、但馬たじまちりめんが作られるようになる。(当時、どの地域に有っても地域の財産であるこうした技術は門外不出で有ったと想われるが)丹後地方との通婚によって、手織り技術は容易に伝習された。この地域の湿潤な気候風土も合い、農業の副業的存在として産地化された。

このような諸種の理由から但馬では綿絲、綿織物工業は皆無である。これは兵庫県の他の地方(南部)と大いに違ふ点である。絹織物は出石地方の縮緬が大部を占め、郷土唯一の機業であった。

■リヨンと養蚕秘録

関連記事 2018年6月7日 リヨンと養蚕秘録

フランス第二の都市であるリヨンは、絹と織物の街として栄えてきた町なのだが、1855年にヨーロッパ全土に広がった蚕の病気がリヨンの絹織物産業に大打撃を与えた際、その助けになったのがシーボルトが持ち帰った上垣守国(注)による『養蚕秘録』であったことなどを知った。その後富岡製糸場などが建設される。養蚕秘録は但馬の絹の品質があまりよくなかったので品質向上のためにまとめられた本だが、この本の優れた点は、字を読めない農家の女性や子供にもわかりやすいように挿絵を多く用いていたことだ。

上垣守國の『養蠶秘録』がヨーロッパの絹糸産業を救った話ー奥正敬
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl212/pdf/212-27.pdf
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl212/pdf/212-28.pdf
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl212/pdf/212-29.pdf

*上垣守国 【うえがき・もりくに】

1753-1808 江戸時代中期-後期の養蚕家。
上垣守国(1753-1808)宝暦3年生まれ。但馬の国(兵庫県)養父郡(やぶぐん)蔵垣村(兵庫県大屋町)の庄屋。文化5年8月15日死去。56歳。通称は伊兵衛。号は仙栄堂。生年は宝暦1年説もある。蚕種の産地であった陸奥の国(青森、秋田、岩手、宮城、福島各県)を頻繁に訪れて蚕の飼育を学んだ。その成果を纏めたのが『養蠶祕録』である
(京都外大附属図書館 http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france19.htm

■但馬の絹〜 丸源太田 但馬ちりめん http://tanto-life.com/product/product.php?cid=3

【浜坂針】

■浜坂針

かつて、縫針の生産が盛んな時代があった。この針工業は、1799年(寛政11年)頃、市原惣兵衛によって長崎から縫針製造の技術が導入されたことに始まる。市原惣兵衛は、1771年(明和8年)頃、浜坂の市原小平治の3男として生まれ、24歳の時、医学の修行のため長崎に留学した。その時、長崎の縫針製造に着目し、技術者2名(喜五郎、武兵衛)を連れ帰り縫針業を始めた。 最初は、火力を使う仕事であるため周囲から反対があった。本格的に縫針生産が行われたのは、惣兵衛が亡くなった1835年(天保6年)以降であり、「みすや針」として全国に知られた。 現在も宝石針、機械針などの新しい針工業としてその名を残している。

元来浜坂針は縫針に限られていて、古くは針穴を手工を以てあけていたので糸切れがせぬと大変珍重がられた。併しその後機械による安価な大量生産品と対抗するため従来の手工製品は廃れてしまった。ただ、機械を使用するとしてもなお細密で特殊な技能と工夫を必要とするものであった。浜坂が原料を阪神に依存しており、移送に不便であり、工業の立地的意義は乏しくともにもかかわらず依然として継続されているのには、伝統的な高い技術と地理的習慣性に基づくものである。

■浜坂針の由来

由来名産又は名所と称せらるるものには其原因を探求すれば多く済世的熱誠家の犠牲が払われている場合少なからず、例えば宇治茶に於ける僧の栄西、甘藷に於ける井戸代官の如きこれなり、而して浜坂縫針に就ても其例に洩れず、斯業の創設は今より百数十年前即ち徳川の中頃に浜阪町の人市原惣兵衛の長崎より苦心惨憺の末輸入伝賚せしものなり、当時同地方は幕府の直轄に属し毫も政治的利益の輻湊することなく地勢概ね狭隘にして耕田山野に乏しく従って町民の大半は漁業に従事せりと雖も港口不良にして漁船の出入に不便なると冬季又は天候不良なるときは漁撈に従う能わざる状態にあるを以て細民の困窮すること甚だしく又一方に於ては居常遊逸の風習を増成し道徳日に廃頽しつつあり、惣兵衛の家は代々医を業となし家産裕かなりしを以て二十四才のとき即ち寛正年中医術を学ぶため笈を遠く長崎に負いて修行せり、彼が一日患者の代診の為某家に赴きたる際縫針製造を見て翻然期する所あり、即ち之れを故郷に伝来して町民に授け貧困と堕落の極にある彼等を救済するは医術に優る医術なりとし爰に於て志せる医術の研究を擲ち親属旧友を顧みず自家の全財産を傾尽して秘法とせられたる針製造を学び得て郷里に齎し爾来漸次隆盛となりたるものにして浜阪町民が彼れより受けたる恩恵や没すべからざるものなり、浜阪人家を距る町余の丘上に建設されたる墓石には針之元祖市原惣兵衛と刻されて今尚町民より徳とされ居るを見る

出典/神戸大学 電子図書システム 神戸又新日報 1916.8.28(大正5)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00078360&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

■浜坂針から〜現在 JICO 日本精機宝石工業株式会社
http://www.jico.co.jp/index.html

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 出典/ 但馬最後の養蚕農家
http://www.tajimagaku.net/houkoku/01/hida_0110_yousan.html

                但馬讀本
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1101585

    但馬の産業
http://www.tanshin.co.jp/zaidan/5sangyou/sangyou.html

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追記 2013年9月2日

上の浜坂針の記事を読んで、九州大分の合氣掌療術院院長 萩原 俊明(はぎわら・としあき)さんが記事を書いてくださった。「何故青年医師は縫い針にビビッときたのだろう 」という興味をそそるタイトルで。わたしは、素材の事ばかり気になっててその辺を掘り下げてなかったから、萩原さんには、良い機会をくださってありがとうと伝えたいです。

鍼灸師の萩原さんだから、この針の記事に目を留めてくださったんですね。特に

『即ち之れを故郷に伝来して町民に授け貧困と堕落の極にある彼等を救済するは医術に優る医術なり

この下りは感動的であり、且つ本質的である。
病は病だけを治そうとして治るものではないからだ。
そのことは今も昔も変わらない。』

のところ。こういう素晴らしい人がこの町の文化を育てたんだと言う事を心に刻んでおきます。

それと、針屋の事を検索していて、歴史の紹介と浜坂の町の家々を美しい写真のページを見つけました。雨や雪にあらわれた古い板壁の見慣れた街角の家々がなんとも風情が有って美しいものだなと、毎日見ている目には見えない何かを見つけました。

こちらのページ 新温泉町浜坂の町並み http://matinami.o.oo7.jp/kinki2/sinonsen-hamasaka.html