川下祭

獅子笑う

川下祭由縁(上島釟郎 編)

祭礼の起こり

享保11年【1726年】 時の庄屋 松岡氏は宇都野神社の隆盛を図り祭礼を行うことを決意。鳥取市 宇部大社に相談を持ちかけたところ、宮司と昔話に花が咲き話題が羽柴秀長の中国攻めに及び、浜坂の砦を守った塩路周防守との関わりになった。塩路周防守の才女は宇部大社の宮司家の娘であって戦いの後、その妻子を松岡氏祖先が匿ったことが分かった。宮司は大いに喜んで祭具一式を提供してくれたと伝えられている

名前の由来

宇都野神社は素盞鳴尊、稲田姫命、大国主命の三柱神をお祭する祇園社である。厄除けと五穀豊穣と国造りの神々で殊に漁師町であった浜坂は漁の隆盛と安全を祈願した。鮑の名水でも語られているように嵩神天皇の四道将軍【山陽、山陰、東海、北陸を平定するため派遣された将軍】彦巫命(ひこいますのみこと)が海路、出雲に向かわれる時、船の修理に塩谷の浜に立ち寄られた。宇都野真若命は其れをお迎えし船の修理を始めたが船底に穴が空いたとき其れを大鮑が塞ぎ将軍は喜び【船魂潮路守】の大神として祭るよう命じられた(宇都野縁起)。当初から海に関わりのある宇都野神社の祭礼として港の入り口であった河口を軸とし【川下祭】とされたに違いない。

写真付きでもっと詳しくは浜坂夢工房/川下祭由縁へ

リンクは先日亡くなられた上島釟郎氏のページ浜坂夢工房にリンクしています。
但し書きに『以上の記述は史実に元ずく証明は有りません。作者の思考によって書かれた文書です』
ということです。が、浜坂の歴史や文化、所在地をまとめてあるページは他には無いので出来れば残してほしいものです。

上島釟郎さんには随分お世話になりました。スイスに行く旅費も山野草の絵を描かせていただいて都合をつけることができました。なにより、今まで知らなかった但馬に咲く山野草を知ることができたのは大きな収穫でした。織がなかなか完成せず、随分ご無沙汰していた事が悔やまれてなりません。

しかし、やっぱりどこか別の場所に行ってしまわれたのだと、そんなふうに思っています。
もしかしたら、田井の南の山頂に有った梨園で、しばしほっこりされているかもしれませんね。

私は一度も見たことは有りませんが、針屋の梨園は桃源郷の様な場所だったそうですから。。