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カテゴリー: 染織の道具

winding station(整経・糸巻きステーション)

 

🔵winding station(整経・糸巻きステーション)
部屋があまり広くないのですが、あれこれ作業をしながら工夫していたらだんだんとできていました。
出っ張ったテーブルは木彫かなんかの台です。裏返して使ってます。(ちょっと散らかってますが)

🔵 2017年展示会 4月14日〜30日 スイス、ビール/ビエンヌ(ドイツ語とフランス語圏の境目)での展示会DM
スイス在住の人形作家の典子Steiner-Obata さんに声をかけていただきました。2005年、2014年と同じ古城のギャラリーで。

森さん、宮本さんと4名のグループ展です。それぞれ期間も違うのですが、部屋が二つあるので典子さんと私は同じ部屋で全日展示です。
スタートが遅くなってしまい今もまだ製作中です。パスポートは期限切れ。自分をスイスに送り出す段取りも手付かずのまま、DM作成から展示まで何もかも典子さんにはお世話をかけています。

あーしたり・こーしたり

すわっち swatch

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たねやバームの箱とまち針

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結局これがやりやすい

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試行錯誤の跡。まだ試行中マルオカ木枠(杉材)S0180×180mm

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『やりにくいこと』はやってみるとわかる。

『なるほどなこと』もやってみるとわかる

『どなたでもやりやすい』まではもう少し。

Russian Paddle combs 2016

 

IMG_6575IMG_6577一年。。。もかかってた。練習と、どこに向かうかってこととね。もう寄り道はしない。一頭分で洗ったフリースから少しややこしくなっている房を取り出して一つの櫛に並べていく。もう一つの櫛でゆっくり梳くと、たくさん付いているゴミがパラパラと落ちる。梳き取りを数回繰り返して直接紡いでいく工程が無駄がなくて気持ちいい。

トルストイとドゥホボール(Doukhobor)

古道具は民族の歴史と宗教とそれに関わった文豪の生涯までも教えてくれた。

【Flax Combs】この古い櫛はドゥホボール派コミュニティの中で、フラックスを梳かし紡糸しやすく整えるために使われていた。コミュニティとともにロシアから渡ってきた櫛はDoukhobor CombsともRussian Paddle Combsとも呼ばれている。

 

Russian Paddle combs demonstration part 2

熊手のような羊毛や亜麻の繊維をとかす櫛を調べていたら、あまり見かけない形の櫛が目にとまる。団扇とか杓文字とか。。この櫛は、「ロシアン・ パドゥル・コーム 」という。「ドゥホボール コーム」とも言うらしい。Paddle は カヌーをこぐ櫂(かい)のこと。

woolcombsというカナダの工房が今も作っているらしい。(残念ながら今はもう休業された)ありがたいことに、動画はそのまま置いてくださっっている。こちらでは主にウールを紡いていた。

Part 1. http://www.youtube.com/watch?v=ol8LfbWvdBQ

Part 2. http://www.youtube.com/watch?v=oCDkfsAb5OU

Part 3. http://www.youtube.com/watch?v=_yqfUg8HJTE

Part 4. http://www.youtube.com/watch?v=3cwipEuD-KE 

一房ずつ櫛に並べて梳かし、その櫛のまま梳毛糸を紡いでいる単純だけど合理的に出来た仕組み、無駄のない動作。どうしても欲しくて、英語もままならないのに直接購入した。購入のやりとりはもちろん、短いフラックス繊維ならウールとの混紡が容易にできることなども教えてくださった。Google翻訳様様でした。

 

なぜカナダでロシアと名のつく道具が?Doukhobor ドゥホボール派とは?早速Wikipediaで調べる。


By Lev Lagorio – www.belygorod.ru, Public Domain, Link
レフ・ラゴリオ (1827—1905)、『バトゥミ港』(1881)。1898年及び1899年にドゥホボール派はここから大西洋経由でカナダへ送り出された。

ドゥホボール派(Doukhobor)

(Wikipediaドゥホボール派>カナダ移住より)

ロシア帝国政府はドゥホボール派の懐柔がうまくいかず、国際的批判も高まったことから、1897年、彼らを自主的移住の形で国外追放することにした。移住費用は自己負担とし、受刑中の指導者たちも減刑して移住させることにした。
一部の人々はまずキプロスへ移住したが、気候が合わず断念した。その他の人々は、カナダ政府が歓迎したこともあり、カナダへの移住を決めた。1899年に第一陣約6千人がカナダに移住し、政府が提供した現在のマニトバ州とサスカチュワン州に入植した。さらに他の人々も続き、7,400人、ドゥホボール派信徒の約三分の一がカナダへ移住し、流刑にされていた人々も合流した。 渡航費用は、彼らに共感したクエーカーやトルストイ主義者、またトルストイ自身(『復活』などの印税)により捻出された。トルストイは友人たちからも資金を集め移住のための基金を設立した。無政府主義者クロポトキンらも彼らを援助した。

レフ・トルストイ

(Wikipedia トルストイ>生涯より)

政府に迫害されていたドゥホボル教徒の海外移住を援助するために発表された晩年の作品『復活』は、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となっている。ただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばであった。『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年に破門の宣告を受けたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。社会運動家として大衆の支持が厚かったトルストイに対するこの措置は大衆の反発を招いたが、現在もトルストイの破門は取り消されていない。

~著者からのメッセージ~
19世紀末,ロシアのカフカースで,小銃やサーベルから拳銃・ナイフにいたるまで,武器という武器をことごとく焼き捨てた宗派があった。
若者たちは徴兵に応ぜず,兵役についていた者は銃を執ることを拒否した。
その名はドゥホボール。
彼らが信条とした平和主義の由来と,その結末を明らかにしたいと思う。
いわば,平和主義を無条件で賛美することも,その非をあげつらうことも,この本の目的ではない。

 

 

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