歴史音痴の私が歴史を探る~服部神社


楞厳寺に伝わる、順徳院姫宮消息装飾経について学ぼうと思い立つ。寺の書物、浜坂町史、福部村史を積み上げさてと、、、私の苦手は語学と歴史。。、順徳院姫宮のこと、順徳天皇、後鳥羽上皇のことを足がかりに一気に苦手を解消できるか。。。

順徳院姫宮消息装飾経は、姫宮直筆の書が散落せぬようにとまとめられ。姫宮の菩提を弔うため服部庄と共に寄進された。(服部庄は今の鳥取県福部町。ラッキョウの生産で有名な場所で、鳥取砂丘もあり産業にも観光にも恵まれている。)経の切れ間にちらほらの見え隠れするかなの文字。何が書かれているか、どんな歌が詠まれているのか、どんな一生をおくられたのか。。。見学のため久々に解かれた巻物を穴があくほど見つめる。

ところで、そんな事を調べていると、実に興味深い別件に突き当たる。国道沿いの海士(アモウ)に服部神社と言う小さな社がある。webで調べていたら、棚機神を祭る全国の式内主要神社 一覧に、「鳥取県岩美郡福部村 服部神社 」と見つける。祭神 天棚織姫命(あめのたなおりひめのみこと)。

[:鉛筆2:]棚機神社
棚機の棚は宛字ではなく、棚にいて機を織る少女が棚機姫で、古代には夏秋の交叉の季節に、村落を離れた棚の上に隔離されて、海または海に通じる川から来る若神のために機を織っていた、と『古代研究』の中で折口信夫は語る。 棚機姫は水の女であり、神をもてなす女である。空海には老婆が遠くから水を運び、お礼に近くに水のわき出す所を教えたと言う。 七夕織姫信仰とは違う神であったようで、水辺で神衣を織りながら神の来訪を待ち、神妻となる巫女の神格化されたものと、織姫とが習合したものである。

折しも七夕間近、なかなか興味深い。さて、今の私に、なんだろう。このタイミングは、このつながりは。縁とはこのような事なのか。。。この、服部神社を真南に地図を移動すると国府町宇部神社がある。この地にももう一度行かねば。
[:クリップ:]街道を行く因幡・伯耆のみち
[:クリップ:]神社や遺跡 線上に並ぶ

海士と書いてあもうと読む。福部村史によれば、この場所に品部と呼ばれた技能集団のなかの機織りを担うハトリ=服部(ハタオリがなまったもの)の集団が有ったとされている。海士という地名はは隠岐にも、またほかにも有るらしいが読み方は「アマ」この地だけが、アモウなのは棚機神社が置かれていたからではないかしら。。と、わくわくしながら考える。アモウ=天羽。羽衣伝説とつながっているのでは。。。と想像。歴史が面白いってこういう感じなのだろうか。始めての感覚だ。(今まで面白くなかったということだ)何か機織りとの手がかりは無いものか、梶の木が有るかもしれないと服部神社に行くが何も見つからなかった。

ところで、、順徳天皇は佐渡に流され、姫宮の墓も佐渡に有ると以前ネットで調べた、一度佐渡へも行かねばね。それから、順徳天皇の父後鳥羽天皇が流されたのは、隠岐国海士郡の中ノ島、現海士(アマ)町。