「もんじゅ」と人の叡知

≪Antinuclear

「もんじゅ」と人の叡知 小出 裕章 書き写し

宇宙の一つの生命としての人類
宇宙に関して考え始めるときりがない。人類が生きている地球は、太陽を回る九つの惑星のうちの一つである。太陽は銀河といわれる星雲の中の一つの星であり、銀河の中には太陽と同じような星が二〇〇〇億個あるという。そして、宇宙の中には銀河と同じような星雲が一〇〇〇億個あるのだという。何百億光年の彼方にある星の、そのまた先に宇宙はあるのだろうか? 宇宙に果てがあるとすれば、そのまた先は何になっているのだろうか? 無限といえるほどの星の、どこかには地球と同じ様な星もありそうだが、そこには生命が存在するのだろうか? もし存在するとすれば、その生命とはどんなものなのだろうか?

エネルギー問題と原子力
私は第二次世界戦争の後に生まれ、高度成長といわれる時代に育った。私が中学・高校生の頃、一九六〇年代半ばには、「石油・石炭などの化石燃料は、燃やしてしまえば、いずれはなくなる。特に、石油はあと三〇年でなくなる。そのため、未来のエネルギーを確保するためどうしても原子力が必要だ」と言われていた。ところが、その後何年たっても、石油がなくなるまでの期間はあと三〇年と言われ続け、三〇年たった現在、石油がなくなるまでには、あと五〇年あると言われるようになった。石炭に関して言えば、それを使い切るまでにはおそらく一〇〇〇年の単位の時間が必要であると言われている。もちろん、石油にしても石炭にしても、地球が何億年かかけて作り上げてきた資源であり、それを一方的に使っていけば、いつかなくなることは当然である。しかし、「化石燃料がなくなるから原子力」といわれた原子力も、地下資源であるウランを燃料とする。当然、ウランも有限の資源である。おまけに、私自身も原子力に足を踏み込んではじめて知ったのであるが、ウランという資源は、利用できるエネルギー量に換算して、石油に比べて四分の一、石炭に比べれば一〇〇分の一程度しか存在しないという大変貧弱な資源なのであった。「原子力は近い将来、燃料がなくなるので、化石燃料を使い続けるしかない」というのが、むしろ正しい表現なのである。

ところが、原子力を推進する人たちには一つの夢があった。ウランには「燃えるウラン」と「燃えないウラン」があり、従来の原子力で利用できるウランは、ウラン全体のわずか一四〇分の一の「燃えるウラン」と呼ばれるものだけであった。しかし、「燃えないウラン」を「プルトニウム」に変換できれば、その「プルトニウム」もまた原子力の燃料として利用できるというのである。いや、もう少し直截に言ってしまえば、原子力とは「プルトニウム」を利用できるようになってはじめて意味のあるエネルギー源になるのであって、それができなければ、ごく短期間で枯渇してしまうエネルギー源なのであった。ただ、仮に原子力を推進する人たちの思惑どおりに「プルトニウム」の利用ができたとしても、その暁に利用できるエネルギーの総量は、ようやく石炭に匹敵する程度のものでしかなく、いずれにしても原子力が化石燃料を超えるエネルギー源となることはありえない。

その上、「プルトニウム」を利用するためには次の三つの困難な問題がある。①「プルトニウム」という元素は天然には存在せず、人類が初めて生み出したものであるが、それは一〇〇万分の一グラムで肺ガンをひき起こすという超危険物である。②「プルトニウム」はウラン以上に優秀な原爆材料となる。③「燃えないウラン」を「プルトニウム」に変換して利用するためには高速増殖炉と呼ばれる超危険な原子炉を動かさねばならない。

高速炉開発の歴史と「もんじゅ」
昨年暮事故を起こした「もんじゅ」と呼ばれる原子炉はこの高速増殖炉と呼ばれる原子炉の一つである。この型の原子炉が危険なのは、次の三つの理由による。①「プルトニウム」を高濃度で取り扱うため、爆発しやすい。②物理学的な理由から、原子炉を冷やす材料として水を用いることができず、ナトリウムを用いる。そのナトリウムは空気に触れると発火し、水に触れると爆発する。その上、水と違って不透明、さらには簡単に放射性を帯びるというように、著しく扱いにくい。③ナトリウムは「熱しやすく冷めやすい」という性質を持ち、原子炉の運転状態の変化によって配管などに大きな熱応力がかかる。それを緩和するため、配管が薄く長大にならざるを得ない。結果的に、プラント全体が複雑きわまりないものとなり、地震などの外力に弱い他、機械的なトラブルを生じやすい。

日本はもともと欧米各国に遅れて近代科学技術に触れた。そして欧米各国に追いつけ、追いこせと科学技術の発展に力を注いだ。しかし、第二次世界戦争で負けたことから、日本の科学技術はさらにまた何年も遅れを負わせれる。原子力はその筆頭であり、敗戦後一九五二年のサンフランシスコ講和条約締結まで日本は原子力開発を禁じられていた。そのため、日本の原子力開発は欧米各国に比べて一〇年から三〇年遅れて彼らの後を追うことになった。先を行っていた欧米各国も一度は高速増殖炉開発に向かったが、そのいずれもが高速増殖炉の危険性を乗り越えることができず、度重なる事故のあげくに開発を放棄するに至った。また米国の場合には、高速増殖炉の危険以上に、核拡散への懸念から「プルトニウム」利用そのものを放棄したのであった。日本は、「日本は核開発はしない」、「日本の技術は優秀だ」と主張しながら、遅れて高速増殖炉に取り組んだが、日本だけが例外であるはずもなく、当然のごとくに「もんじゅ」も事故に遭遇した。それも、未だに定格出力に達しない試運転の段階で、ごく初歩的な設計ミスからナトリウムを空気中に漏洩させ火災となった。この一事だけでも、日本の原子力技術の底の浅さを示すのに充分であった。しかし、「もんじゅ」の事故が示したものはそれだけではすまなかった。起こってしまった事故への対応を誤って事故の進展を拡大し、さらにその上、組織ぐるみで事故隠しまで行ったのであった。

原子力と核の関連
「もんじゅ」は今回の事故で致命的な欠陥を露呈した。運転を再開するにしても、長期の時間が必要であろうし、仮に再開されたとしても、その後また事故に遭遇するであろう。おそらくはそのあげくに欧米各国がそうしたように日本も高速増殖炉開発を断念することになると私は思う。

しかし、そう簡単に油断することもできない。何故なら、この世界には、どうしても高速炉(この場合は、「増殖炉」でなくても良い)を必要としている人たちがいるからである。これまで多くの日本人は、「核」と「原子力」はあたかも違うものであるかのように思いこまされてきた。しかし、もともと原子炉はエネルギーを生み出すために開発されたのではなく、核兵器材料、プルトニムを生み出すためにこそ開発されたものなのである。日本で「平和利用」と信じられている原子力発電が稼働すれば、原子炉の中には自然にプルトニウムが蓄積してくる。つい先日まで、日本は米国の尻馬に乗って、朝鮮民主主義人民共和国がプルトニウムを生み出したと非難していた。しかし、日本はすでに三〇年も前にプルトニウムを手にしていたし、仮に朝鮮がいま手にしていたとしても、その最大予想量の千倍、万倍にも相当する量のプルトニウムを日本は「平和利用」を口実にすでに手にしている。ただ、日本の原子力発電所から得られるプルトニウムは燃えるプルトニウムの割合が七〇%程度しかなく、優秀な核兵器製造には向いていない。そこで、高速炉が登場する。何故なら、高速炉が生み出すプルトニウムは燃えるプルトニウムの割合が九八%というように、超優秀な核兵器材料となるのからである。

「プルトニウムは超危険な毒物である。高速炉は超危険な原子炉である。エネルギー問題の解決にもたいして役立たない。それでも、優秀な核兵器を手にするためには、何としても高速炉を動かさねばならない」と考える人たちは、いつの時代にも、どこにでもいるのである。

文殊の知恵
宇宙の歴史は一五〇億年、地球の歴史は四六億年、人類の歴史は四〇〇万年といわれている。その人類が地球上で、他の生物を押し分けて繁栄してきた原因は、火と道具が使用できるようになったからである。したがって、人類の特徴はまず一番にエネルギーの使用にあるし、人類が生きるためにはいずれにしても何らかのエネルギーが必要である。しかし、二〇世紀といわれるこの百年で人類が使ったエネルギーは、四〇〇万年の人類の全歴史で使ったエネルギーの六割を超えるのである。さらに、たとえば日本の場合、この百年の間にエネルギー消費量は百倍に増加し、今では国土全体に降り注ぐ太陽エネルギーに比べて、約二〇〇分の一のエネルギーを人為的に使うようになっている。もしこのままのスピードでエネルギー消費を拡大していけば、二一〇〇年には、太陽エネルギーにほぼ匹敵するエネルギーを使うようになる。その時点ですでに人類の生存可能環境が日本に残っているとは考えにくいが、仮りに、その時点ではまだ生存できたとしても、さらにその百年後には、太陽エネルギーの百倍のエネルギーを使うことになってしまう。

地球の歴史の中では、たくさんの生物種が生まれては滅んできた。それが生命あるものの宿命でもある。人類もまた四〇〇万年前に発生した一生物種であるが、人類のこれまでの歴史を一日とすると、二〇世紀という一〇〇年は一日の終わりのわずか二秒にしかならない。その最後の二秒で、人類は自らの絶滅の道を急速に転げ落ちていっている。

高速増殖炉は人類に厖大なエネルギーを提供すると宣伝された。しかし、思惑通りに開発が進んだとしても、それが供給できるエネルギーは高々石炭に匹敵する程度でしかない。その上、一方で、核兵器の脅威がますます増大する。おまけに、人類にとっての真の課題は、際限のないエネルギー供給ではなく、エネルギー中毒からいかに抜け出すかにある。人類は自らを「万物の霊長」と名付けたが、人類は自らの愚かさのために、近い将来絶滅する瀬戸際にいるのである。

「もんじゅ」という名前は仏教の文殊菩薩から取られたという。文殊菩薩は知恵を象徴する菩薩である。人類が絶滅したところで、地球の運行は露ほどにも変わらないし、宇宙にとっては、まったく取るに足らないことであろう。しかし、今を生きる人類にとって、「もんじゅ」の事故から、せめて人類としての叡知を汲み取るべきだと私は思う。

(小出 裕章:京都大学原子炉実験所)
本稿では、高速増殖炉、および「もんじゅ」の事故そのものについては、詳しく触れなかった。それらについては、私の同僚である小林圭二さんの優れた報告がある。興味のある方は、以下の本、雑誌をお読みください。

「高速増殖炉もんじゅ:巨大核技術の夢と現実」、七つ森書館(一九九四)

「もんじゅ」のナトリウム火災、技術と人間、一九九六年、一・二月合併号、十六~四一頁

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